フルトヴェングラーは当時ドイツで演じられていた出来事の全部を知っていたわけではなかったが、ナチの気にいらない美術館長や指揮者、映画監督や歌手、俳優や画家、作曲家などがすべて追放された事情は知っていた。
それゆえフルトヴェングラーはできる限り、迫害された人々を援助して生命を救い、反ユダヤと戦い続けた。
だが戦後、この極悪非道な行いに対する戦争責任の一班を背負わされることになった。
大戦中、ドイツの画家たちは、ごく少数の例外を除いて、ほとんどすべて国内に残って沈黙していたという。画家は民衆のなかに戻って、溶け込むことができた。
しかし、フルトヴェングラーにはそうすることは許されなかった。ナチに利用価値がありすぎたためである。
だがナチスが提供しようとした立派な家や地所や不動産を彼はすべて固辞しつづけた。名誉や地位も次々に捨てていった。彼は沈黙を守ることはできなかったが、ナチばかりではなく、いわば見捨てられたドイツ人たちも、それを許さなかった。
例えば、画家たちの住まいには、いつ、ゲシュタポが臨検に来るかわからない。世に出ているのはすべて御用画家ばかりだった。それほどでない市民たちにしても、とにかく音楽は唯一の楽しみであったに違いない。
またユダヤ人と公然と交際し、それを助けていた人たちは、フルトヴェングラーのおかれている立場を苦々しい目で見ていたが、彼らでさえ、フルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルを聴くのが、ほとんど唯一の芸術的なよろこびだったのである。