フルトヴェングラーのバッハとハイドン/フルトヴェングラー鑑賞室

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フルトヴェングラーのバッハとハイドン

フルトヴェングラーのディスコグラフィーを見て誰もが気づくことは、バッハとハイドンが少ないことである。

しかし、彼のレパートリーから欠落しているわけではなかった。ことに、1922,23年のシーズンから、アルトゥール・ニキシュの後を受けてベルリン・フィルを掌握するようになってから後の彼のベルリン・フィルの定期コンサートのプログラムを見ると、1926,27年のシーズンを除いて、バッハにしろハイドンにしろ毎年のように一ないし二曲取り上げていた。

ナチとの間がうまくいかなくなった34,35年から37,38年の4シーズンはコンサートの回数がへり、また第二次大戦中と、戦後の復活後も同様の理由でプログラムの幅は狭くなっているために、1922,23年ほど多くはないが、絶無ではない。

*アルトゥール・ニキシュ(1855〜1922)ハンガリーの名指揮者。第二代ベルリン・フィル常任指揮者。作曲者の指示を絶対視せず、指揮者の主観を作品上に投影した。

  

ただ前述のモーツァルトの項でのフルトヴェングラーのコメント通り、彼のバッハにはいろいろな問題があろう。

「マタイ受難曲」を愛し、自分が死ぬときはマタイのコラールを聴きたいを漏らし、あたかも信仰告白のようにこの作品を指揮した彼であったが、遺された録音は意外に冴えないもので、とてもメンゲルベルクのような説得力は持っていない。

それは彼が自分の強烈な個性を抑えすぎているからで、むしろブランデンブルグ協奏曲第3番や第5番の方が数段面白い。

それはまさにフルトヴェングラー色濃厚なバッハで、大きなルバート、意味深いアタック、引きずるようなレガート奏法、極度に遅いテンポによって音楽は絶えず沈んで考え込むように流れてゆく。

表情も意志的なアクセントから、あえかで哀しくたおやかなピアニッシモまで無限の変化を示し、全編巨大な内容を孕んでいる。

すなわち人間の心しか感じさせないバロックなのである。

特筆すべきは第5番第1楽章におけるフルトヴェングラー自身のピアノである。

そのテンポの自在な動き、強弱の幅の広さ、情熱的な盛り上がりは指揮者のピアノとは思えない名人芸である。これは現代の機械的なチェンバロとは一線を画している。

アメリカの音楽評論家、ハロルド・ショーンバーグは、

「フルトヴェングラーは歴史に弱かったし、音楽的直観力は高くても、音楽的教養は低かった。」といって彼のバッハをけなしているが、一方フルトヴェングラーは次のように語っている。「大多数の人々は、バッハの音楽に退屈しないと、それが正しい様式で演奏されているとは思えないのだ。」

私自身はフルトヴェングラー説に賛成したい。

バッハ当時のスタイルをそのまま再生してみるのも意義のあることには違いないが、意義のあることと感動とは別問題である。

今日ではバッハの時代とは比較にならない程、楽器の性能も技術も進歩し、コンサート・ホールや聴衆の数が拡大されている。

そして何よりも現代の聴衆は古典派、ロマン派、近代音楽を通り抜けてきている。それゆえに当時とは感覚的にまるで違うのである。

何度でも聴きたくなるような演奏こそ、聴衆の求める理想である。

フルトヴェングラーの「ブランデンブルグ」協奏曲はその高さまでいっていないのかもしれない。

バッハの音楽よりはフルトヴェングラーの個性を感じさせてしまうからである。何度でも反復して聴きたい、という気にはなれない。

それは彼とバッハの相性が今一つ良くないからだが、しかし無味乾燥で、無表情で、まるで機械が演奏しているようなバッハよりはどれほど良いか分からない。

フルトヴェングラーのハイドンも数少ないが、交響曲第88番「V字」は見事な演奏の一語につきる。

彼はこの曲を1951年のベルリン・フィル定期に取り上げている。11月30日と12月3日である。

ドイツ・グラモフォンへの録音への録音は12月5日に行われているから、コンサート直後に正式のレコーディングセッションが行われた例は珍しいものである。

このハイドンは、軽やかさを前面に押し出しつつ、四つの楽章のそれぞれの性格を巧みに描き分けてゆく。

そうして生まれた立体的で彫りの深いハイドンの世界。

とかく平面的なものに終わりがちなハイドンとは、ひと味もふた味も違っている。

言うなれば、引き締まった軽やかさ。隠し味として雄渾さ、スケールの大きさを背後に秘めているフルトヴェングラーならではの演奏である。

フルトヴェングラーのハイドン(とモーツァルト)は、それらを古典主義時代の枠から外して広く交響楽の見地から判断し直さなければならない。

「フルトヴェングラーの」と形容せずにはおけない強い個性を持っているのである。

それはロマンティックな解釈の基盤に立った古典派交響曲の表現といってすまされない独自のものである。

テンポは遅めであるが決して重くならない。細部のフレーズが柔らかく微妙な表情をたたえながら、聴く者をハイドンのつくりの大きさのなかに包みこんでしまう。

このような包容力をもったハイドン演奏はフルトヴェングラー以前には聴かれなかったし、彼の以後にもない。巨匠の名演というに相応しい、古典とロマンのバランスが見事に保たれたハイドンである。

彼が残したもう一つのスタジオ録音、第94番「驚愕」の演奏も本当に立派なもので、すっきりとした表情の中に、深い厚みが隅々にまで刻み込まれ、高い品格と風格が備わっており、この一曲でフルトヴェングラーの偉大さを証明するにたるものである。

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