ベートーヴェンの交響曲をかなりの歳月聴き込んでくると、「第7」の魅力に取りつかれるようになる。
一方に、第1、第3、第4楽章で主役を演じている活発なリズム運動があり、他方に第2楽章で深い哀愁を漂わせて奏でられる印象的なメロディーとハーモニーがある。この対比が魅力の根源なのだが、聴き手の心を動かす決め手となるのは、なんといっても第2楽章を深々と歌いあげてゆく力である。
フルトヴェングラーはイ短調の第2楽章にベートーヴェンが注ぎ込んだ哀しみをしっかりと受け止め、スケール大きく歌い進んでゆく。この「不滅のアレグレット」の対位法的な部分で、ウィーン・フィル(スタジオ録音盤)は優れた室内楽奏者のように、互いの演奏を聴きながら弾いてるかのようだ。
よほどの腕利きの集まりなのだろうが、自発的な表現を全体に取り込む指揮者の手腕も見事といわねばならない。ベートーヴェンの交響曲の緩徐楽章中、不思議な明るさに溢れている「第9」のあの第3楽章と並ぶイ短調のこの名楽章が、本来の深さと大きさを伴って聴き手の前に姿をみせるのである。
また、一方でトスカニーニはこの第2楽章も深々としているが、それより際立っているのが、第1、第3、第4楽章におけるリズムの鋭角的な刻みで、爽快この上ない。トスカニーニならではの切迫感が、才気のほとばしりを実感させる。必要なものだけを残した凝縮感が際立っている。
フルトヴェングラーが大人の風格を示しているのに対し、トスカニーニは余人の持たぬ恐るべき才気でそれに対抗している。