フルトヴェングラーが演奏会で好んで取り上げた作品は、第一にベートーヴェン、それに次ぐのがブラームスで、以下、ワーグナー、R・シュトラウス、ブルックナー、シューベルト、ハイドン、モーツァルト(順不同)などであった。
演奏回数からすると、ベートーヴェンがブラームスの倍以上を数えるが、作品数からすると、交響曲、管弦楽曲、協奏曲、のどの分野でも、ブラームスの作品数はベートーヴェンの半分以下だから、実際に演奏された割合でみると、フルトヴェングラーの場合、ベートーヴェンとブラームスはほぼ同等といえるだろう。
ブラームスについては、「ドイツ・レクイエム」や「アルト・ラプソディー」「運命の歌」などのオーケストラ付きの声楽曲も大切にしていたが、特に四つの交響曲は再度にわたって演奏され、スタジオ録音は少ないもののライヴの数々の名演奏が録音された。
フルトヴェングラーの母親アーデルハイドは、ブラームスが最も大切な親友と考えていた優秀な古典学者グスタフ・ヴェントの娘であった。ブラームスの音楽に対するフルトヴェングラーの讃仰と愛は、その母の影響によるところが少なくないのであろう。
しかし若い頃からドイツ理想主義の精神を家庭教師による緻密で高度な教育などでしっかりと植えつけられたフルトヴェングラーにとって、本来、ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームス、R・シュトラウスの音楽は決して疎遠ではありえないものだったのである。
ブラームスについて彼は、この作曲家の音楽が純粋にドイツ的、ゲルマン的であることを高く評価しており、次のように述べている。
「ブラームスの芸術は、純真で、素朴で、つねに人間的だった。彼は、徹底して自然のままでありながら、徹底的に自分自身を保持する意志力も持っていた。ブラームスの芸術は、最後のドイツ的な作曲家として、ワーグナーと並ぶ世界的評価を得ることができた。それは、完全にドイツ的であり、しかもきわめて非妥協的であったにもかかわらず、むしろそれゆえに、名声を勝ち得たのである。」(フルトヴェングラー著『音と言葉』芳賀壇訳、新潮社版、「ブラームスと今日の危機」より)
フルトヴェングラーのブラームス演奏は、彼の芸術形成の時代的背景に照らしても当然のことながら、多分にロマン的である。 しかもフルトヴェングラー自身のもつロマン性がブラームスの音楽の特質と完全に適合しているから、その演奏は例えようもなく素晴らしく感動的であり、同時に全く彼独特のものといえる。
前記の『音と言葉』の引用文にあやかるならば、フルトヴェングラーの演奏は徹底してブラームスそのままでありながら、徹底的にフルトヴェングラー流のものであった。 それゆえフルトヴェングラーの演奏するブラームスには、まるで自分自身の曲を演奏しているかのような自然さがあふれている。
それは、ブラームスの交響的発想がフルトヴェングラー自身のロマンティックな基盤と合一しているからに違いない。 楽想の一つ一つが必然的な共感をもって歌い出され、少しの違和感もない緩急法を得て、実在的な感覚を具現している。