フルトヴェングラーのレパートリーの中で、ブルックナーの交響曲は最も重要なものの一つであった。
ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームスを本領とした彼がブルックナーを指揮したのではない。
『音と言葉』の「ブルックナーについて」のなかで、「晩年になるにつれ、他の多くの作曲家よりもますますブルックナーを深く愛するようになった。」と述べた彼は、ブルックナーの交響曲を極めて高く評価していた。
愛国心の強かったフルトヴェングラーはドイツ音楽の輝かしい伝統と誇りとし、しかもその真髄が交響曲であるとして、交響曲の三大「B」である、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーの作品の演奏を自己の使命と感じていた。
1906年、当時二十歳のフルトヴェングラーが指揮者としてデビューした時、指揮したのはブルックナーの交響曲第9番であった。
ミュンヘンにおいてカイム管弦楽団の共演を得たこの演奏会は、指揮者としてのフルトヴェングラーを世に認めさせるのに充分な成功を収めた。
またフルトヴェングラーの自作自演の交響曲第2番を聴けば、種々の点で彼がいかにブルックナーに私淑していたかは明白であろう。
1910年代ばかりでなく、続く20年代においても、ブルックナーの真価はまだ世に認められていなかったが、フルトヴェングラーは努めてこの楽匠の交響曲を多くプログラムに取り入れた。
1922年から彼は、特に交響曲第4番と交響曲第7番を盛んに演奏している。ブルックナーの交響曲を世に知らしめるには、まずは親しみやすい曲からということで選んだのだろう。
それゆえ彼がドイツ・ブルックナー協会の総裁になったことは不思議ではない。
1939年、彼はブルックナーについての講演を行い、ブルックナーの交響曲の原典版について、その価値を強調し、ブルックナーの音楽の持つ精神的内容の充実していることを認めた。
彼は『音と言葉』で次のように述べている。
「この音楽の言葉の敬虔さ、深さ、純粋さは、一度経験したことのある人にとっては、もはやそれから逃れることのできぬものである。」
「彼は音楽家ではなかった。この音楽家は、真実はエッケハルトやヤコブ、ベーメのようなドイツ神秘家の後裔であった。」
「ブルックナーの音楽は聴者が完全に帰依し、無我の境に入ることを期待し、要求する。」
「ブルックナーの持つ力強く素朴なものと高い精神性との混合はドイツ音楽家に珍しいものではない。ブルックナーはその点、シューベルト、ハイドン、ベートーヴェン、ブラームスなどを先輩としている。」
「ブルックナーの偉大な芸術はまさに超時間的なものを志向しているゆえに、現代的なものである。」
「彼は今日のために作曲したのではない。彼はその芸術において永遠を考え、永遠のために作曲した。それゆえ彼は大作曲家のうちで最も誤解される人となった。」
フルトヴェングラーは、今日の標準からみると遅いテンポを採る指揮者である。
それはある程度当たっているのであるが、ブルックナーの交響曲においては、総体的にいえば、彼のテンポはむしろ速い。
ことにスケルツォ楽章のテンポは著しく個性的で、作品にデモーニッシュな力を与えている。
とはいっても、緩徐楽章ではまことに悠然たる足取りで時間を超えた無限の広がりを感じさせる。
またフルトヴェングラーは前述のように、ロマン的な指揮者とされ、事実ワーグナーやブラームスなどのロマン派後期の作品ではその特性が見事な成果を生むのであり、ブルックナーの場合も同様であることは否定できない。
しかし同時に彼はブルックナーから感情過多、感傷性を徹底的に排撃しており、その演奏はむしろ古典的というべきものである。
意外にもテンポの延び縮みはなく、イン・テンポで押し通し、それでいながら表情は豊かである。
ことに経過句部分の音楽的意味の説得力に漲った表現は天才的という他ない。