指揮者にとってはほとんど避けて通ることのできないモーツァルトの作品の中で、特に最後の3大交響曲は、その指揮者の音楽の本質的なところにいたるまでを、例えばベートーヴェンなどとはまた異なった形で明らかにし得るという点において、極めて重要なレパートリーであるとみてもよいであろう。
もっとも、モーツァルトの交響曲の演奏については、しばしばハイドンの演奏との間に、ひとつの定説のようなものが生まれており、すぐれたモーツァルト指揮者は、ハイドンに適してないことが多く、ハイドンのエキスパートといわれる人には、モーツァルトに向かない人が少なからずあるというように、適性を問われる条件が、思いがけないところにあることも指摘されてきた。
それにしても、ここで「40番ト短調」と「ジュピター」という全く対照的な二曲のモーツァルトの交響曲について問うてみると、あるいはそれ以上に、この二曲の間にも、指揮者の意識や適性の違いが考えられるのではないだろうか。
モーツァルトの「ト短調交響曲」の代表的名盤として多くの人びとによって挙げられてきたのが、フルトヴェングラーとウィーン・フィルによる録音であるが、これは非常に興味深いことである。
「ジュピター」についてフルトヴェングラーの名が挙がることは決してないからである。しかもそれは偶然のことではない。
例えば彼が1922年から第二次世界大戦後にいたるまでのベルリン・フィルの定期で取り上げたモーツァルトの交響曲は、「プラハ」以降の四曲に限られているが、その中で「ジュピター」は、29年2月のただ一回(二日間)だけである。
それに対して第39番と「ト短調」は、いずれも四回以上で、「ト短調」が最も多く、しかも戦後取り上げた唯一のモーツァルトの交響曲ともなっている。
このことは、彼の「ト短調交響曲」に対する意識が「ジュピター」のそれとは全く異なっていることを示している。
なかでも興味ある事実は、1945年の1月23日のコンサート(それは大戦間の最後のコンサートとなった)での演奏中、空襲による停電のために「ト短調交響曲」の第2楽章のはじめのところで演奏が中断され、復旧後もこの曲はそのまま割愛されたということと、間もなく彼がスイスに亡命したということである。
それは、第二次世界大戦後の「ト短調交響曲」の演奏にまったく影を投げかけていないとは考えられないからである。
戦後唯一のベルリン・フィルの定期は、1949年6月のことであり、名演として知られるウィーン・フィルとの録音は、オーケストラは違うとはいえ、その前年になされているのである。
パトスということばがこの交響曲にかかわるとすれば、フルトヴェングラーの演奏はそれを裏付けるものとなるに違いない。
その速めのテンポがもつ異常なまでの緊張感も、その感を一層強めているようだ。
実のところ、フルトヴェングラーモーツァルトとあまり相性が良いとはいえなかった。
「バッハの演奏は難しい。私自身が神になる必要があるからね。しかし、ブラームスやワーグナーは地のままでいけば良いのだ。」と語ったフルトヴェングラーは、モーツァルトにも同じことを感じていたのかもしれない。
彼の「魔笛」では、例えば「パ・パ・パの三重唱」一つをとっても、テンポの粘った動きがモーツァルトの透明感を全く失わせる結果となり、全体のリズムも重すぎる。
逆に「40番」は、どうにも吹っ切れないというのか、自分を出しつくしていない感が残り、本人としても不満足だったに違いない。実際彼自身「死ぬまでに一度で良いから40番のシンフォニーを理想的に演奏したい。」と洩らしている。
私が想像するに結局この願いは叶えられなかったのではないだろうか。要するにフルトヴェングラーとモーツァルトとの音の感性が違いすぎるのである。
それにフルトヴェングラーのモーツァルトは「魔笛」に限らず、神経質にすぎ、深刻にすぎ、微笑みに欠ける。
モーツァルトの音楽は深い内容を備えているが、それは分かる人には分かる式のもので、説明調になったり、強調してはならないのである。
そんなフルトヴェングラーが、たった一回だけものの見事なモーツァルトを実現した録音がある。
それはイヴォンヌ・ルフェビュールと共演したピアノ協奏曲第20番 K.466で、1954年5月、死の年のライヴであるが、最晩年であるからこそ可能な演奏だった。
当時の彼は「形式は明確でなければならない。すっきりと枯れていて、決して余分なものがあってはならない。」と語っていたが、その言葉の全き実践がこのモーツァルトであり、音楽の哀しみの中に身をもって入り込み、痛切に嘆きつくしている。
彼の魂の告白は異常なほどだが、厳しくも混じり気のない造型が大きな力となって、素晴らしい透徹感を生んでいるのである。
それはフルトヴェングラーが「40番」のように内面的には少しも抑制せず、「魔笛」のように自分の感情のすべてを注ぎ込みながら、形式的に一分の隙もない完璧さに仕上げたということである。
これこそ、真に才能のある者だけが到達し得る理想の境地といわねばならない。