私の印象では、一般的に有機的な統一を有する作品は、精神性と結びつけて考えられ、全体形式が素材の有機的発展に基づかない作品は、音を響きそのものとして捉える。
フルトヴェングラーの言葉で言うなら、物質的な姿勢において、把握されるという傾向がある。しかし、全体形式がどうであるかということと、作品の表現内容がどうであるかということとは切り離して考えるべきである。
有機的統一を保ちながらも精神性を求めないサウンド重視の音楽も有り得るだろうし、部分と全体が緊密な連関性を持たない形式をとりながら、精神性を追求している作品も存在しうるからである。
フルトヴェングラーが亡くなった、すぐ後には彼の現代音楽へのアプローチは確かに時代遅れになった。
しかし、もし彼が今生き返ったとしたら、不毛以外の何物でもないと当時思われた(精神的だが)非有機的な統合に基づく作品において、彼はどんな演奏を聴かせてくれるのであろうか。