フルトヴェングラーの一生は俗世界から超越した、音楽だけの生活であったが、舞台人である以上、俗世間との交渉は不可避のものであった。不器用で処世術に疎く、謙虚で控え目な性格を持つ彼は、議論好きではあったが、世間のことには無知だった。
ソプラノ歌手のマリア・シュターダーは、フルトヴェングラーを「世事に疎い愚人」と呼んでいるが、そんな愚人がナチスと渡り合ったのだから、そもそも結果は見えている。
彼は政治などというものを頭から馬鹿にしていたが、実はそれがどれほどデモーニッシュな権力を持ち得るか、ということに対しては全く気がつかなかったのである。
このフルトヴェングラーの第二次世界大戦中の行動は、抵抗する「国内亡命」といえるか、それとも政治的無知として断罪されるべきかは高度な政治問題である。
そしていま、我々が改めて認識されなければならないのは、こうしたフルトヴェングラーのナチスへの加担が、本人の意識如何にかかわらず、彼の保持し続けようとしたドイツ教養市民文化の反啓蒙的な精神伝統に、そしてその核をなしている「内面性の神話」に由来しているということである。