例えば、ベートーヴェンについて彼の著書『音と言葉』(新潮社版)の中で次のように述べている。
「あの嵐のただ中、あの怖るべき感動のただ中においてすら、― なんという鋼鉄のような冷静と透徹、なんという仮借のない自己抑制への意志、あらゆる素材をその最後のどんづまりまで押し詰めて形成せずにおかぬ意志が支配していることか!なんという比類のないすぐれた自己鍛治であることか!― このような無条件な情熱の中へ突入する欲望を持ち合わせていながら、― しかも彼のようにかくも深く「法則」を体験した芸術家は、かつてあった例がありません。」
フルトヴェングラーにとって、ベートーヴェンがかけがえのない存在であったことをまず思い起こさなくてはならない。今触れた19世紀教養市民文化の聖なるシンボルとなったのは何よりもゲーテであり、シラーであり、そしてベートーヴェンであった。
というのも、彼らの芸術の中に孕まれている形式と内容(精神)の調和、市民的公共性と内面的なものの融合、そしてそうした調和、融合の核をなす自己陶治=教養の要素といったものがそのまま教養市民文化の基底をなしているからである。