この巨匠にとって、レコードとは何だったのだろうか?そのことについてまず考えてみる必要がある。
彼は「ラジオを通しての音楽会から聴衆が受け取る、あの栄養のない、干からびて生気の抜けた煎じ出しが音楽会の完全な代わりを果たしうるなどと心底しんじているような人は、もはや生の音楽会が何であるかを知らない人だけである。」と言っている。
つまり、フルトヴェングラーは、端から少なくともスタジオで録音するレコードを信じていなかったのだろう。
しかし一方ではまた、「演劇を保護する為には、映画を滅ぼしてはならない。同じように、コンサートの音楽を保護する為にも、レコード音楽を滅ぼしてはならない。」とも言っている。
結局、巨匠にとってレコードとは、あくまでも第二義的な存在で、コンサートに人々の耳を向けさせる為の単なるプロモーションに過ぎなかったのかもしれない。
フルトヴェングラーがレコードを嫌った最大の理由は、即興性の強い指揮者だったからである。彼は実際のステージでのみ火のように燃えることができた。少しの誤りをも繰り返し再生するレコードを意識した演奏では、この巨匠はライヴの数分の一程にも即興性を発揮できなかったのであろう。
これは彼の相次いで発売されている実況録音盤を聴けば、どんなロバのような耳しか持たぬ人にも解かることである。