前述したようにフルトヴェングラーのこの間の行動は、抵抗する「国内亡命」といえるか、それとも政治的無知として断罪されるべきかは、高度な政治問題である。
この点について、リースの本の中でフルトヴェングラーが戦争勃発寸前の1937年の夏、ザルツブルグ音楽祭でトスカニーニとであったくだりにお互いの思想をぶつけあった記述がある。
リースによれば、この時二人が対面して交わした話には、幾通りかの記述があるのだが、その中で私に最も真実らしく考えられる一節が次に述べる通りである。
「フルトヴェングラーが数回の客演演奏会のためにザルツブルグにやって来た時、彼は同僚たちから暖かく迎えられた。ただトスカニーニのみは、彼がナチ政府の代表者であることに我慢ができず会うことを避けた。この二人が、よぎない事情で顔を合わせることになった時、フルトヴェングラーがトスカニーニに、彼の『ニュルンベルクの名歌手』の素晴らしい演奏を心からほめたたえた。」
「これに対し、トスカニーニはまったく冷たい返答をかえした。
『御挨拶をそっくりおかえし申したいところです。私は、自由な考えをもつすべての人間を迫害する恐ろしいシステムに甘んじられるような者が、ベートーヴェンをまっとうに演奏できるものではないとつねづね考えています。あなた方ナチスの人びとは、精神の自由な表明を全部おさえつけ、許したものといえば、力のゆがめられたリズムと、これ見よがしのお芝居だったではありませんか。「第9」は同胞愛のシンフォニーであることを考えてください。「百万の友よ、相抱いて」の言葉を書きおろしたのも、この言葉を音楽にしたのもドイツ人であったことを忘れないで下さい。この人類に向かっての力強い呼びかけを本当に指揮した人なら、どうしてナチスであることに甘んじておれやましょうか。今日の情勢下で、奴隷化された国と自由な国の両方で同時にタクトをとることは芸術家にとり許されません。』と言ったというのである。
これに対しフルトヴェングラーは『もしそうすることによってあなたがザルツブルグ音楽祭のための活動を続けて下さるなら、私は喜んでもう二度とここへ来ないつもりです。しかし私自身は、音楽家にとっては自由な国も奴隷化された国もないと考えています。ヴァーグナーやベートーヴェンが演奏される場所では、人間はいたるところで自由です。もしそうでないとしても、これらの音楽を聴くことによって自由な人間になれるでしょう。音楽はゲシュタポも何ら手出しできない広野へと人間を連れ出してくれるのですから。偉大な音楽は、ナチの無思慮と非情とに対し、真向から対立するものですから、むしろ私はそれによってヒトラーの敵になるのではないでしょうか。』
トスカニーニは頭をふって、『第三帝国で指揮するものはすべてナチです!』」
「『すると、あなたは、芸術というものはたまたま政権を握った政府のための宣伝、つまりそのかぎりのものにすぎないとおっしゃるのですね。ナチの政府が勢力を占めれば、私は指揮者としてもやはりナチであり、共産主義の下では共産主義者、デモクラシーの下では民主主義者とはるのですか?いいえ、絶対にそうではありません!芸術は、これらのものとは別の世界に存在するものです。それはあらゆる政治的偶発的な出来事の彼岸にあるのではないでしょうか。』
トスカニーニは再び頭をふって答えた。『私はそう考えません。』これで話合いは終わった。」
以上が、フルトヴェングラー側から出た情報によるその日の模様である。
リースはこれに続けて、自分の見解をこう付け加えている。
「大切なのは、ここでは主観的見解の違いだけが問題なのであって、どちらが実際に正しかったかは別問題だということは忘れないことだ。実際において正しかったのは、もちろん、トスカニーニであった。そしてそののち数年間にわたり、彼の正しさを証明することとなった。なぜなら、独裁政治の内部には現実を超越した自由などありえないのだから。しかし、より高い意味で、いや最高の意味でどちらが正しかったかということについて、果たして疑問の余地があっただろうか?フルトヴェングラーは、実際に自由でいることのできなかった独裁の中にあってさえ、自己の自由を感じることができたのである。なぜなら、彼の真実の世界、内面の世界には、ヒトラーもいなければ、ムッソリーニもいなかったのだから。」
このようにリースの言葉をたどってみて、まず、どうやらリースは最初に述べたことを後段になって忘れてしまっているようである。
さらに私が思い起こすのは、前述したドイツ的内面性の神話である。
それは「精神」「内面性」といったフラーゼをつらねながら一個の自足した文化空間をつくり上げる一方で、近代文明やそれに帰属する実証的、実践的運営のための統治技術といったものを程度の低いものとして斥け、自らの世界の「崇高さ」を誇る、というドイツ的内面性の神話である。
ドイツ人は文明と文化を厳格に区別することをはじめた人種である。
文明、すなわち経済も政治も便益の手段にすぎず、リースが「真実の世界、内面の世界」とつづけて書いているように、真実の世界は内面の世界であり、内面の世界は真実の世界なのである。
それはまた、さらに芸術が実現しようとしている自由の世界でもある。
それゆえ、ドイツ人にとっては政治、つまり便益の世界で自分たちの意にそぐわないことが起こっていても、それが自らの精神、文化の世界に侵入し、冒してきさえしなければ、それを見逃すか、政治的不可避の悪として許容される。
だから世界に誇る頭脳と教養の士、知識人と芸術家のいたドイツで短期間に、しかもきわめて低級で野蛮な手段でナチスが政権を奪取できたのである。
フルトヴェングラーもドイツ人の例にもれず、政治がどれほどデモーニッシュな権力を持ちうるかということに対して全く気がつかなかったのである。
これに対し、イタリアのルネサンスとヒューマニズムの伝統のもとに育ったトスカニーニは、それをいちはやく見通した。それだけでなく、全力をつくして抵抗し、自らの行動がファッショのもとでは許されないとなると即座にアメリカに出て行った。
フルトヴェングラーの二重で、他者からみると理解に苦しむ曖昧な態度は、連合国すなわち、イギリス、フランス、オランダなどでなら、許される余地があったのかもしれない。
だが現実的にはナチス・ドイツには、トスカニーニがフルトヴェングラーに言った通り、精神の自由などあるはずもなく、権力の奴隷にされた国民の塊しかなかった。
フルトヴェングラーは世界の多くの人々がナチに奴隷化された国で指揮棒をとるものは許されないと考えていて、友人の多くでさえ、なぜ彼がドイツに留まるのかを理解できないでいることを承知していた。
「『個人的利益のためだと真向から非難する人々も少なくなかった。もちろん、それが事実無根であることは、私自身が誰よりもよく知っていた。しかし、私がドイツにあくまでも踏みとどまらなければならぬということは、あらゆる理由をこえ、あらゆる有罪無罪の問題をこえて、揺るがぬ私の信条であった。
かつては、キリスト教がわれわれの共通の故郷であった。だが、この信仰の問題が背後に退いた後、あとに残るのは国家だけである。なぜといって、音楽家にとっては、やはり一つの故郷は必要なのだ。
たとえヒトラーに共感するところがどんなに少なかろうと、私は、ドイツと最後まで運命を共にしようと思ったのだ。世界における、または世界に対しての私の立場などは、決して、そして最も決定的な問題ではなかった。』
したがって、フルトヴェングラーは『音楽家にとって故郷は必要であり、亡命などは逃避にすぎない。』と考え、行動した。」とリースは記述している。
しかし、私はフルトヴェングラーがドイツに残ったわけはそれだけではないと考える。
なぜなら、彼の音楽ノートのカレンダーより1936年にこう記述していることを想起するからである。
「人間的感動の大部分は人間の内部にあるのではなく、人と人との間にある。」
フルトヴェングラーは、音楽は政治の外にあって、精神の自由を内面の世界に実現することによって、政治を超越し、さらにある場合には対抗する、と考えていた。
ということは、先の彼の言葉通り、音楽は人それぞれの内面だけのものである、という意味ではまったくないのである。
「芸術と政治とは何の関係もないと、人びとは口癖のように言う。何と間違った考えだろう。芸術も政治も、真空では存在できないということがわかっていないのです。双方とも働きかける人間が必要です。公衆が必要です。
音楽は何よりも共有体験でなければならない。公衆のない音楽とは、存在不能でしょう。音楽は、聴衆と芸術家との間にある流動体です。音楽は、構築物でも、抽象的発展でもなく、生きた人間の間に浮動する要素です。そしてこの運動により意味をもつのです。」
とフルトヴェングラーはリースに語っている。
この彼の言葉と、彼のトスカニーニに対する返事とが矛盾するのかしないのか、トスカニーニは矛盾していると考え、フルトヴェングラーは矛盾しないと考えていた。
そのことと結びつけて考えないではいられないのが、トスカニーニとフルトヴェングラーの演奏様式の違いである。
トスカニーニの芸術は「伝統とはだらしないことの別称だ」というモットーを根底においた。
曖昧な伝統的解釈を捨ててスコアへの忠誠を誓った厳格なイン・テンポでカンタービレするスタイルは、世界中どこでも聴衆を納得させる客観性をもつといった革命的な演奏様式だった。
このようなトスカニーニの演奏をフルトヴェングラーは「無慈悲なまでの透明さ」と評し、また「私が感じているようなベートーヴェンの『第9』の音と、例えばトスカニーニのベートーヴェンの違いを、中部ヨーロッパ以外の国で、一体誰が分かってくれるだろう。」と述懐していた。
だから、フルトヴェングラーはドイツを離れることができなかった。
彼の音楽はドイツの音楽家と共演し、ドイツの聴衆との交流において最も見事に結実した。その聴衆、すなわち彼のいう「公衆」のいるところが、彼の故郷であると同時に、彼の存在理由だったのだ。