ここで一応便宜的に彼の音楽表現を「内的側面」と「外的側面」に分けて考えてみたいと思う。
「内的論理」というのは、フルトヴェングラーの音楽の内在的な論理とそれを支える彼自身のそうした論理の意味付けの仕方を意味し、「外的側面」は、フルトヴェングラーの体現する音楽の論理が当時の時代状況の中で帯びなければならなかった社会的、歴史的文脈を意味する。
「内的側面」からみたとき、フルトヴェングラーの音楽の論理は19世紀の教養市民文化の最も良質な伝統につながるものとみることができる。
すなわち、19世紀の教養市民文化の興隆に一方では支えられつつ、他方ではそうした近代市民社会の「啓蒙」的性格への対抗的原理としての「内面性」や「文化」、精神の「真性さ」への志向をその中に含む、近代ドイツ特有の精神文化のスタイルとしての教養市民文化こそが、フルトヴェングラーの音楽の前提であった。
(注)「真正さ」…フルトヴェングラーは、批判的な自由な思想態度が確立し、普及した文化のなかにあって、「芸術作品とは閉ざされた世界、他に依存しない世界であり、開かれた世界、つまり評価する知性の世界は、すぐれた芸術作品の価値を正しく把握しえない。」と考えていた。