過ぎ去ってみれば /フルトヴェングラー鑑賞室

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過ぎ去ってみれば

過ぎ去ってみれば、表現主義と新即物主義の違いは、スタイルの差であって、個人的な感情の表出であれ、写実的な記述であれ、主眼とされているものは「人間」に変わりないのである。

ロマン主義者メンゲルベルクの録音に聴くことができるような、テンポを自由に伸び縮みさせることが横行していた当時の人々には、トスカニーニは頓狂に聴こえただろうが、残念ながら今の私にはその驚きをあまり共有することはできない。

時代はもっとドライな方向へ行ってしまったので、「全体への意志」の権化フルトヴェングラーと正確さを訓示する「怒れる針鼠」トスカニーニも、その熱情を希求する姿勢において同じにみえるのである。

フルトヴェングラーが「偉大さとは魂のうちにある」と発言するのは当然として、新即物主義の傾向を支持していた指揮者のワインガルトナーでさえ「情熱なしには天才的な業績はありえない」と著書に述べているのである。

熱情的なスタイルは当時の演奏習慣であったに違いなく、この習慣は作曲家が完璧に仕上げ、楽譜を指揮者の意志によって随意に再解釈しなければ気がすまないほど強いものであった。

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